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大沢親分が急死、硬式球を握りしめ天国へ
プロ野球の日本ハムなどで監督を務めた大沢啓二(おおさわ・けいじ、本名昭=あきら)氏が7日午前7時25分、胆のうがんのため都内の病院で死去した。78歳。1981年、日本ハムを球団初のリーグ優勝に導き「親分」と親しまれた熱血漢。自身が出演していた日曜朝のテレビ番組での流行語の通り「あっぱれ」な野球人生だった。もう愛情に満ちた「喝!!」は聞けない。親分が突然、天国に旅立った。大沢氏は9月19日までレギュラーコメンテーターだった日曜朝のTBS系「サンデーモーニング」に出演。その4日後の23日に入院した。マネジャーの久保文雄氏によれば、昨年12月、胆のうがんが見つかった。大沢氏本人もがんの存在を知りながら、テレビ出演などの仕事をこなしていた。入院後、「サンデー-」は2週欠席したが、土曜の夜になると「あしたは朝6時に起こしてくれ」と久保氏に命じた。1週間ほど前に会話が困難になったというが、2日夜には「あしたは(TBSに)行く」とベッドから立ち上がったという。また、看護師が携帯電話の着メロで日本ハムの応援歌を流すと、オーケストラの指揮者のようにタクトを振るポーズをして、周囲を笑わせた。会話ができなくても、陽気で豪快な大沢氏らしさを失わなかった。5日から危篤状態に。この日午前7時25分、枕元の硬式球を握りしめ、家族に看取られながら、天国へ旅立った。「勝ってゲームセットを迎えた後のような穏やかな表情でした」と久保氏は話した。2人の兄がプロ野球選手だった大沢氏は、神奈川商工高を経て立大入り。後輩の長嶋茂雄(巨人終身名誉監督)、杉浦忠(ダイエー元監督、故人)らと神宮を沸かせた。プロでは主に守備要員で、野村克也(楽天名誉監督、サンケイスポーツ専属評論家)とバッテリーを組んだ杉浦が、4連投4連勝で長嶋の巨人を下した1959年の日本一にも貢献した。東京(現ロッテ)で現役引退後、コーチを経て71年途中にロッテ監督に就任。76年から日本ハムの指揮を執った。10年連続Bクラスで人気もない弱小球団を、江夏豊らを獲得する大胆なトレードで改革。81年に日本ハムとして初のリーグ優勝。「グラウンドでやることさえやれば、何も言わねえ」。面倒見がよく「親分」の愛称で慕われたのはこのころからだった。2度目に日本ハム監督を務めた94年には最下位となり、東京ドームのグラウンド上で土下座してわびた。べらんめえ調の歯にきぬ着せぬ物言いや、監督・コーチとして7度退場するなど熱血漢ぶりは、ユニホームを脱いでも「喝!!」「あっぱれ!!」で人気を博し、いつしか「球界のご意見番」に。時に厳しい言葉を発しながら、その目はいつも温かみにあふれていた。男・大沢の、あっぱれな人生が幕を閉じた。
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